「その物差しは、本当に自分のものか。」

― 柏尾哲哉氏がたどり着いた、「自分自身の物語を生きること」とキャリアの関係

京大法卒、証券会社に勤務しながら弁護士となり、その後ビジネスローファーム、外資系法律事務所、グローバル金融機関、ヘルスケア企業へと活動の場を広げる。その経歴だけを見れば、誰もが思い描く「成功」を手にしてきたようにも見える。


しかし、柏尾氏の約35年にわたる職業人生は、最初から明確な道筋を描き、その計画どおりに歩いてきたものではない。


90年代前半バブル経済の最終局面、2000年のITバブル崩壊、2008年のリーマン・ショックなど、


柏尾氏が働いてきた時代は、日本経済と企業社会が大きく変化し続けた時代でもあった。


かつて評価された会社や仕事が数年後には姿を変えるようになり、それまで信じられてきた「成功の方程式」は通用しなくなった。そんな状況下でキャリアを築いてきた柏尾氏は、小さな違和感や、かすかに聞こえる心の声を無視せず、ときにアンオーソドックスであったとしても、自分の軸に従って行動してきたという。


なぜ弁護士になったのか。その後のキャリア選択はどのような思考をもとに行われたのか。そして今年、なぜ市長選へ挑戦したのか。その背景を聞いた。

家族を守るために選んだ法律


「弁護士になった理由は正義感ではありません。お金です。」


インタビューの冒頭、その一言に驚かされた。しかし話を聞き進めるうちに、その言葉の重みが分かってくる。


柏尾氏が育ったのは北海道帯広市。帯広市内の商店街にある、小さな眼鏡店が実家だった。


一階が店舗、二階が住居という、当時よく見られた店舗兼住宅。二階は窓も少なく、昼間でも電気をつけなければ暗かった。そこに家族や親族を含む七人ほどが暮らしていたという。


父は真面目に商売へ取り組んでいたが、事業は決して順風満帆ではなかった。高校生だった柏尾氏は、家族を取り巻く状況から、『自分が将来、家族を支えられる人間にならなければならない』という思いを強くしていった。


「家族を支えられる人間にならなければならない。」


その思いは、将来の職業を考えるより先に、自分の中で固まっていた。

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    笑顔でランチインタビューに応じてくださる柏尾弁護士。

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大学受験では一度悔しい思いも経験した。現役時に第一志望としていた北海道大学に合格できず、一年の浪人生活を経て京都大学へ進学した。


「もう一年、家に負担をかけるのであれば、現役時には想像していなかったところまで行かなければ、その一年に意味がないと思ったんです。」


その頃、姉の本棚にあった石川達三の小説『青春の蹉跌』を読んだことも、弁護士を目指すきっかけになった。経済的に恵まれない青年が司法試験に挑み、合格することで人生の扉を開いていく物語だった。


会社の名前ではなく、自分自身の専門性によって生きていく。その力があれば、家族を支えることもできる。柏尾氏にとって、弁護士とは、家族を守り、自分の力で生きていくための「パスポート」だった。


ところが、司法試験は合格まで何年かかるか分からない。大学卒業後も何年も受験勉強だけを続けるという選択は現実的ではなかった。


幸運だったのは、まだ世の中はバブル景気だったことだ。


当時の山一證券は、京都大学や東京大学などの法学部生を対象に、司法試験への挑戦を続けながら働ける独自の採用制度を設けていた。司法試験に合格すれば退職して弁護士になればよい。合格しなければ、そのまま社員としてキャリアを積めばよい。そんな、今では少し信じ難い制度である。


柏尾氏にとって、山一證券は「一流企業だから」選んだ会社ではなかった。弁護士になるという目標を最も現実的に実現できる場所。それが山一證券だった。


「司法試験に受かるまで生活を支えながら働ける環境が必要だったんです。」


1991年、柏尾氏は山一證券へ入社し、経営企画部門の法務担当として勤務した。働きながら司法試験に挑み、入社から約3年後に合格。司法修習を経て、1996年に弁護士となった。

司法試験合格と弁護士としてのキャリアスタート


柏尾氏が弁護士として選んだのは、TMI総合法律事務所である。


若い弁護士の多くはこの選択を「王道」と見るかもしれない。しかし、それは2026年の法曹界を前提にした見方である。柏尾氏が入所した1996年当時、現在の「五大法律事務所」という勢力図はまだ存在していなかった。TMIも創業から間もない6年目であり、そもそも当時は、企業法務や渉外案件を中心にキャリアを積むこと自体が、現在ほど一般的な選択ではなかった。当時は、「企業のビジネス案件ばかりをする弁護士は、本来の弁護士とは違う」といった見方があったのだという。


しかし、当時の柏尾氏にとって勤務先を選ぶ判断基準は明確だった。「どこへ行けば最も成長できるか。そして、自分自身の力で価値を生み出せる弁護士になれるか。」


TMIへの入所は、自身が掲げたこの目標にピタリと重なった結果であり、他になかった。


その後、TMIは日本を代表するビジネスローファームへと成長し、企業法務も弁護士にとって最も人気の高い分野の一つとなる。結果だけを見れば、柏尾氏は時代の変化を先取りしたように見える。しかし、その選択をした時点で、その未来が見えていたわけではない。


土俵を選ぶ、リスクを取る 


TMIでは、M&Aをはじめ、多種多様な案件に携わった。ビジネス法務という世界に魅せられる一方で、柏尾氏の関心は、弁護士としていかにサバイブするのかにも向けられていた。

海外に単独で赴き、徹夜で契約交渉を行っている様子



「どうすれば勝てるか、というよりも、どこで勝負すれば自分の価値を一番発揮できるかを考えていました。」


折しも、日本企業による海外進出や海外企業による日本投資が活発化し、クロスボーダー案件は着実に増え始めていた。日本法を理解し、海外の法律事務所や外国人クライアントと協働できる日本人弁護士は、まだ決して多くなかった。


「きちんとサービスを提供できる日本人弁護士が少ないのであれば、自分がその一人になればいい。」


皆が目指す場所で競争するだけでなく、自分の強みがより生きる場所を探す。自分が戦う土俵を選ぶ――その方が、自分自身の価値を発揮できると考えたのである。

事務所時代、M&A案件をクローズした際の記者会見の様子

クライアント企業からのスカウト、そして外資系事務所とのJV


TMI入所後しばらくしたある時、アイルランド・ダブリンに本拠を置く企業の日本事業に関する案件を担当した。


当初は日本での販売・事業提携に関する案件だったが、プロジェクトは次第に拡大し、日本法人を成長させ、将来的な株式公開を目指す構想へと発展した。


日本法人の経営者から「外から弁護士として支援するだけでなく、中に入って一緒に事業をつくってみないか」と誘われ、悩んだ結果、同社日本法人のインハウスとして、IPOプロジェクトと法務を担うことを決めた。


結果からいうと、この会社はITバブル崩壊によって親会社の業績が悪化し、日本法人のIPO構想も消えてしまう。挑戦は失敗だったとも言えるが、柏尾氏は、厳しいビジネスの現実を経営の内側から経験した貴重な機会だったと、ポジティブに捉えた。市場環境が変われば、目標そのものが失われることもあるのだ。

上記企業での経験を経た後、英国系法律事務所Denton Wilde Sapteから、日本業務への参画を打診された。


当時の制度上、外国法律事務所が日本人弁護士を直接雇用することには制約があったため、柏尾氏が日本側の法律事務所を設け、Denton Wilde Sapteと提携する形で業務を展開することになった。弁護士登録からまだ6年ほどだったが、『どこへ行けば最も成長でき、自分の価値を発揮できるか』という判断基準から、その挑戦を選んだ。


「どこへ行けば最も成長できるか。そして、自分自身の力で価値を生み出せる弁護士になれるか。」


またこれが判断基準となった。


外国人弁護士やパラリーガルと協働し、クロスボーダーM&A、国際紛争、日本企業の海外案件、海外企業の日本進出などに携わった。異なる法制度や文化の間で、一つの成果物を共同で作る仕事は、非常に刺激的だったという。

英国Denton Wilde Sapteとの特定共同事業を開始。事務所入口にて。


数年後、Denton Wilde Sapteはグローバル戦略の見直しに伴い、日本を含むアジア拠点からの撤退を決定する。その連絡は突然だったそうだ。柏尾氏はその当時、Dentonの案件だけでなく、日本企業を含む自らの顧客を開拓しており、渉外弁護士としての基盤作りが進んでいた。そのまま別の事務所へ転籍し、キャリアを続ける道もあった。


しかし、柏尾氏はこの時、仕事仲間から誘われたモルガン・スタンレーで社内弁護士となる道を選ぶ。外部の専門家として助言するのではなく、企業の一員として責任を共有し、経営と一緒に走る経験をしてみたいという思いが強くなっていた。また、この時期は金融機関におけるインハウス弁護士の数がまだ少なく、ブルーオーシャンであった。

インハウス


モルガン・スタンレーでは、株式、資本市場、M&A、証券化、不動産など、今日であれば複数のインハウス弁護士が担当するであろう幅広いビジネスを一手にカバーした。入社時点ですべての分野に精通していたわけではなく、入社後同僚に支えられながら追いついていったという。世界中から集まるトップタレントに揉まれながら、柏尾氏は金融と社会が連動する現実を目の当たりにした。市場の評価が企業経営を変えること。開示やガバナンスへの信頼が、企業価値や資金調達に直結すること。資本市場の判断が、一企業だけでなく景気や社会全体に影響すること。法律事務所では見えてこなかったものが見えるようになった。



40歳の誕生日を当時の勤務先モルガン・スタンレー証券で。

2010 年にはモルガン・スタンレーと三菱UFJフィナンシャル・グループの合弁体制構築にも関与した。その後、バークレイズが日本で新たな投資銀行・株式ビジネスを立ち上げるタイミングで同社へ移籍する。成熟した組織に残るより、新しいものをつくる側へ。その選択もまた、『どこで自分の価値を発揮するか』という、それまでの考え方の延長にあった。


40歳、もう一つの問い 


ここまでの柏尾氏のキャリアは非凡そのものに見える。山一證券からTMI、外資系法律事務所、モルガン・スタンレー、バークレイズ。日本経済とグローバル資本市場の中心で、企業法務の経験を積み重ねていた。


しかし40歳を迎えた頃、柏尾氏の中では一つの問いが芽生え始めていた。


「今の自分が体験しているのは、本当に成功なのだろうか。この成功の物差しは、本当に自分のものなのだろうか。」


それまでの自分は、業界で評価されること、高い専門性を身につけること、より大きな仕事に挑戦することを目標に走り続けてきた。もちろん、その努力に後悔はない。しかし、ふと立ち止まったとき、一つの違和感が生まれた。


「社会の中で成功することは大切です。でも、その基準を作ったのは、自分ではなく誰かなんですよね。」


良い大学に入り、資格を取り、一流と呼ばれる事務所や企業で働く。若い頃は、それが成功への道だと信じて疑わなかった。


「弁護士は、お客様の物語を支える素晴らしい仕事です。お客様の仕事が大きくなれば、自分の仕事も大きくなる。そのことに大きなやりがいを感じていました。一方で40歳を過ぎた頃から、『では、自分自身の物語はどこにあるのだろう』という問いも持つようになりました。』」

資格や肩書きを外したとき、一人の人間として、自分は何を社会に生み出せるのか。これは、転職先を考える問いではなかった。人生そのものの物差しを見直す問いだった。


人生に、もう一本の軸をつくる 


40歳で人生の物差しを見直したからといって、仕事を辞めたわけではない。本業には全力で取り組みながら、その一方で、肩書きを外した自分は社会に対して何を生み出せるのかという、もう一本の軸を持つようになった。


2006年頃から、故郷・帯広で何かをしたいという思いを持ち始めた。すぐにホテル事業の構想があったわけではない。2013年には帯広を舞台とする短編映画制作のプロジェクトに関わり、その活動を通じて地域との接点が増え、後のホテル事業へとつながっていった。


未来が見えていたのではない。ただ、「自分自身の物語を生きたい」という方向だけは、少しずつ明確になっていた。


50歳、金融業界の構造変化が突きつけた選択 


柏尾氏に大きな転機が訪れたのは、2008年のリーマン・ショックそのものではなく、その後の金融業界の構造変化が日本・アジアにも本格的に及んだ2015年から2016年頃だった。


欧米金融機関が日本・アジア事業の収益性を見直す中、バークレイズでも日本の株式ビジネスなどの大規模な縮小が行われ、柏尾氏のポジションもその影響を受けた。


同じ時期、帯広では古いホテルを再生し、新しい宿泊施設を立ち上げるプロジェクトが動き始めていた。2016年3月に開業したHOTEL NUPKAである。

北海道帯広市に開業した『HOTEL NUPKA』

一方では新事業への大きな投資と責任。もう一方では、50歳を迎え、これまでの延長線上ではない次のキャリアをどう描くのかという不安。二つが同時に重なり、精神的に最も苦しい時期を経験した。


最終的には複数の企業からオファーを得た。金融関連企業に残る選択肢もあったが、次の10年をどこで過ごすかを考え、柏尾氏はヘルスケアという新しい業界を選んだ。


ヘルスケアという新しい土俵   


柏尾氏が入社したのは、世界的な医薬品開発支援企業パレクセルだった。医薬品の臨床試験などを支援する日本事業でゼネラル・カウンセルを務めた。

50歳の年に、金融からヘルスケア業界に転身し、パレクセルで新しいスタート

金融業界からヘルスケアへの転身は大きな方向転換に見えるが、本人は、契約やリスク管理という法務の基本は共通し、業界固有の知識は学べばよいと考えていた。


その後サンドへ移り、法務・コンプライアンス部門の責任者となった。M&A、ノバルティスからの独立、バイオシミラーを柱とする事業変革など、日本法人の経営に深く関わった。


パレクセルで初めて法務部門を率い、その後サンドでも組織を束ねる立場となった。法律の専門家として自ら判断するだけではなく、チームが力を発揮できる環境をつくり、組織として成果を生み出すことも、自らの役割になった。


金融からヘルスケアへと舞台が変わる中で、企業内弁護士の役割についての考え方もより明確になった。
 
『企業内弁護士とは、法律の専門家であると同時に、経営チームの一員である。』
 
法的リスクを指摘するだけではなく、事業を理解し、経営陣や事業部門とともに課題を整理し、リスクを見極めながら新しい挑戦を実現する。専門性を生かし、人や組織がより良い未来へ進むための意思決定を支えることが、自らの役割だと考えるようになった。
 
振り返れば、この仕事観は企業だけに向けられたものではなかった。金融、ヘルスケア、そして地域づくり。一見異なる世界に見えるが、
『人や組織が未来へ進むための意思決定を支える』という一本の軸でつながっていた。


この仕事観は、後に故郷・帯広でのHOTEL NUPKAの立ち上げ、そして市長選への挑戦へと、ごく自然につながっていくことになる。

自分の物語を生きる 


ヘルスケア企業での仕事を続けながら、帯広で始めたHOTEL NUPKAも少しずつ地域に根を下ろしていった。宿泊施設にとどまらず、クラフトビール、馬車BAR、中心市街地の回遊、観光、地域事業者との連携へと活動は広がった。

2019年に開始した『馬車BAR』。帯広に受け継がれる農耕馬の文化に由来する

しかし、地域に深く関わるようになればなるほど、民間の力だけでは変えられない課題も見えてきた。


「もっと帯広は良くなるはずなのに。」


一つの事業が成功しても、それだけでは街全体は変わらない。中心市街地、住宅、公共空間、観光、若者の居場所、高齢者の孤立。個別企業の努力だけでは地域全体の方向は変えられない。自治体が長期的な方向性を示し、多様な主体をつなぐ必要がある。

2026年4月、柏尾氏は帯広市長選挙へ立候補した。弁護士でも企業法務責任者でもなく、地域で事業に取り組んできた一人の経営者、市民として、自らが考える帯広の未来を有権者に問いかけるためだった。


結果は当選には至らなかったものの、1万票を超える支持(総投票数の約20%)を得た。この挑戦を通じて、多くの市民と出会い、地域の課題だけでなく、その可能性や底力にも改めて触れることができた。


選挙後も挑戦は続いた。選挙後も地域での挑戦は続いている。2026年7月には、帯広食べ歩きまち株式会社らが進める街なか回遊の取組が経済産業大臣表彰を受賞するなど、市長選で掲げた地域の未来を、民間の立場から実装する活動を続けている。

        出馬に際して作られたマニフェスト

現在も柏尾氏はサンドの法務・コンプライアンス責任者として企業法務の第一線に立ちながら、帯広での挑戦を続けている。60歳を迎えた今、法律家として培ってきた専門性や、企業経営の中で得てきた経験を、企業だけでなく地域や社会の未来をつくるためにも生かしていきたいと考えている。


次の市長選挙に挑戦するのか。その答えは、まだ決めていないという。


「市長になること自体が目的ではありませんでした。必要なことが実現できるのであれば、民間でも、別の仕組みでもよい。自分に残された時間を、どこで使うのが一番意味があるのかを考えたいと思っています。」

未来は、最初から見えていたわけではない 


柏尾氏のキャリアを振り返ると、後から見れば、さまざまな点が一本の線としてつながっているように見える。しかし、その時々に次の未来が明確に見えていたわけではない。
 
完成されたキャリアプランではなく、自分の中の小さな違和感を無視しないこと。誰かが作った序列の中で競うだけでなく、自分が価値を生み出せる場所を探すこと。そして、社会から与えられた物差しだけでなく、自分自身の物差しを持とうとすること。
 
その選択の積み重ねが、後から振り返れば、一つの物語になっていた。


若い弁護士たちへ 


インタビューの最後、柏尾氏は、若い弁護士たちへ向けて、こんなメッセージを寄せた。


私自身も若い頃は、『良い大学に入り、司法試験に受かり、良い事務所に入り、より良い条件の仕事に就く』という、社会が示す物差しを信じていました。それは家族を支え、自分の将来を切り開くために必要な選択でもありました。
 
ただ、40歳を過ぎた頃、一つの疑問が生まれました。
『この物差しは、本当に自分のものなのだろうか』と。
 
弁護士は、お客様の人生や事業を支える素晴らしい仕事です。ただ、それに一生懸命になるあまり、自分自身が何を生み出したいのかを考えることを後回しにしてしまうこともあります。
 
若い弁護士の皆さんに
『転職しなさい』と言いたいわけではありません。自分が今使っている物差しが誰のものなのかを、ときどき考えてみてほしい。周囲の評価なのか、業界の常識なのか、それとも本当に自分自身が望んでいる未来なのか。
 
未来は最初から見えているものではありません。私自身も、その時々で目の前の挑戦を選んできた結果、後から点が線になっていきました。
 
だからこそ、自分の物差しを持ち、目の前の選択を大切にしてほしい。そして、人の期待に応えるだけでなく、自分自身の物語も生きてほしい。それが、60歳になった今、私が一番伝えたいことです。